2012年8月18日土曜日

「リトルピープルの時代」を読んでなぜ最近の仮面ライダーの敵は幼稚園バスをジャックしないのかが解った。

以前JAM THE WORLDに出演されてたのを聴いて、面白い人だなー。と思ったのが批評家の宇野常寛さんという方でした。
この方が昨年出された本を最近読んだんです。
それが「リトルピープルの時代」という本。

以前書かれた「ゼロ年代の想像力」って本も読んだのですが、これも面白かった。

話が似ている部分もあったのですが3年経ってる分考察が深かった。

村上春樹の1Q84をメインに日本で物語がどのように書かれているのかを考察しているのですが、ぼくが特に興味深かった、というか読んでいて一番色々考えたのが物語に対する「敵」の描かれ方についての言及でした。

ぼくが子どもの頃は「敵」は分かりやすい「悪」で良かったんですよね。
それが今の時代は「正義」と「悪」の定義がすごく曖昧になっているわけですよ。
というか実は曖昧だったことが浮き彫りになってきた、というほうが良いのかもしれない。

政治家、マスコミ、原発報道その他諸々だれが正しくて誰が正しくないのかなんて簡単にはわからない。

そんな時代なので「敵」って一体誰なのかがどんどん曖昧になっていく。なので物語を描く場合何を「敵」として主人公は戦うべきなのか、慎重に描かなければならない。ある人によっての「敵」は他の人にとっては「味方」かもしれない。ちょっと前まではドイツの軍服をイメージさせるような、アメリカの科学技術や軍事力を彷彿とさせるような、そんなのを敵とすれば良かったわけですが、今は「これが敵です」ときっぱり言い切ってしまうことは危うい。そんな時代ってわですよ。

「リトルピープルの時代」は後半はそんな時代にヒーローを描き続けている平成の仮面ライダーシリーズについても考察しているわけなんですが、そういえば確かに、ここ何年かの仮面ライダーの「敵」は何を目的にしているのか解らない奴らが多いですよねー。

今クライマックスを迎えつつある仮面ライダーフォーゼは「学校」という舞台で「高校生」を主人公にすることで、「友情」を破壊しようとするものを「敵」と定義してるので分かりやすいんですが。

てな考察なのですが、ふっと思い出したのがファイナルファンタジーなんですよ。

ファイナルファンタジーのⅠはぼくが小学校2年生の時に発売になったのですが、その後一時期誰もが認めるRPGの王として君臨してて、それがいつの間にやら「昔のFFはよかった」とか言う声が増えてきてますよね。

この「昔のFFはよかった」と言われ始めた時期と「敵」の定義が曖昧になって来た時期がかぶってるような気がするんですよ。気のせいかもしれないけど。

やっぱりね、凄くむかつく悪者がやっつけられるとスカッと気持ちよいのがイイ物語じゃないですか。
でも、絶対的な「敵」が定義できなくなったってことはある物語で、ある人にとっては凄く腹の立つ悪者でも、ある人にとってはそんなに悪いと感じない、なんてことも起きるかもしれないですよね。

だから、ひょっとしたら万人ウケする感動的な物語もつくりにくいし、万人ウケするゲームの設計もしづらいのかもしれない。そう考えたら「昔のFFはよかった」てのも安易に言えないのかもなー、とか。まあ、統計とったこともないので完全に想像なんですけどね。


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